カリヨンの歴史

鐘そのものが人間の歴史に登場した一番最初の記録は、青銅器時代、教科書でもお馴染みの「銅鐸」などがそれにあたります。銅鐸の役割は正確にはわかっていませんが、おそらく魔除の意味を持っていたであろうと考えられ、その他にも宗教的な意味合いの強い鈴が作られ、埋葬され、現在に伝わっています。
キリスト教世界に導入されたのは大体300年ごろ、ヨーロッパ全土へのキリスト教の普及とともに、修道院毎日の祈りの日課の時を知らせるために鳴らされるようになりました。

初めは険しい山の中などに設置されることがほとんどだった修道院が、そのうちに人里に降りてきて、街の中に存在する世俗型の修道院が増えるにつれ、日課の祈りが行われるタイミングが、街中の人の生活時間の区切りとして利用されるようになりました。

時は手工業の時代、家の中での労働時間の管理のためにも、時を告げる手段が必要だったのです。修道院の鐘を時の合図に使うようになり、さらに時計が開発されることで均等な時間割ができるようになり、大きな鐘で時を告げるようになりました。街が発展し、規模が大きくなると、それに合わせてより遠くまで音が届くよう、高い塔が必要になりました。

しかし、10時か11時か12時か、最初を聞き逃してしまうと何時か分からなくなってしまうこともしばしば起こります。このため、「今から時報を鳴らしますよ」という前触れ・前打ちの鐘として、小さい鐘で旋律を鳴らすようになりました。これがカリヨンと、カリヨンによる演奏の始まりです。 遅くとも14世紀には時報のベルの前に複数のベルを鳴らすという記述が記録に登場しています。前打ちの鐘の美しい音は人々を魅了し、各都市の人々は競い合うかのように、より美しく魅力的な前打ちの鐘を備えました。 現在のカリヨンの原型である、鍵盤と接続されて演奏可能な形態をとるようになったのは1500年ごろとされ、1510年をカリヨンの始まりの年としています。

ところで、16世紀の初頭ヨーロッパで忘れてはならない世界史上の事件といえば、ルターの宗教改革です。この時期、より多くの教会が時を告げる鐘と共に再建されました。新しいカリヨンの建設を支援するための寄付は、社会的な要請だけではなく、宗教的な動機も積極的に働きかけたのです。美しく豪華なカリヨン は教会の一部として新たに建てられた鐘楼に納まりました。しかし、時間を告げるための塔はもはや教会の一部である必要はなく、市場の中心や市役所の建物の一部として、信仰の拠り所とは別個のものとして建てられたものもあります。

これらのカリヨン建設も、当時の活発な経済状況がなければ実現しませんでした。金融の歴史を研究する専門家によれば、国内の経済成長が自国の市場の成長により大きく貢献したことがわかっており、特に1400年代半ばのアントワープの市場取引高の上昇は、中央ヨーロッパから銅と銀をもたらした南ドイツの商人とイギリスとの布貿易の成果と考えられています。さらに、当時のオランダの資本市場は国内外に対する政府主導のローンを導入し、短期的には税金で、長期的な低金利のローンとして年金制度を構築し、経済を支えました。加えて、オレンジ公ウィリアムスが都市ごとの税制・金融政策の裁量権を認めたことから、カリヨンを都市の自衛・防災のための公的施設とみなし、その建設を中心にした街づくりを行うことができました。これらの様々な要因が複雑に絡み合った結果、今も世界遺産として残るカリヨンと鐘楼群とが誕生したのです。

都市ごとの性格を表す美しい鐘の旋律、街の繁栄を支える時の印、街から街へと旅する人にも遠くから認識され、目にも耳にもその街の印象を刻む鐘楼とその鐘は、都市の自治の象徴そのものでもありました。旋律は時に、重要なニュースを知らせる役割も果たし、例えば戦勝の知らせであるとか、領主の慶弔であるとか、もっと日常に沿ったものでは殺人や火事が起きた知らせなど、街の誰もがそのニュースを知ることができる、広報塔でもあったのです。

そのため、鐘を守ることは街の自治を守ることとイコールでした。鐘を奪われることや、誤ったメロディを鳴らして街を混乱させることは絶対に許されません。鐘には容易にアクセスをさせない、そのため鐘楼でも演奏室へのアクセスは今もなお複雑な構造をしている塔が少なくありません。鐘の演奏者の専門性が問われるのも、こういった歴史的な背景によるものです。